斉藤斎藤『渡辺のわたし』(BookPark、2004年)
仰向けで目が覚めたのだとおもう。目をひらいて天井を見る。見る、というよりもおのずから見る形となる。するとひし形(◇)の天井が見える。寝るときは正方形(□)だったのに。
天動説と地動説みたいな話になるが(なるか?)、むろん寝ている間に天井が回転したわけではない。寝ているわたしが、回転したのだ。けれども寝ぼけまなこのわたしは、一瞬それを、天井が回転したのだと認識する。このあたりにまず、うたのたのしみがある。
でもそれは一瞬で、「ああ」と声まで聞こえてきそうだが、また体をもとの姿勢にもどしてもうひと眠りする。正方形に「もどして」ではなく、「ちかづけて」なので、そのあたりは厳密でなく、いい加減に。でもなんとなく、そのままではおられず、姿勢をそれなりにもどすのである。
もうひとつ、正方形というのはひし形の一種である。ひし形であって、かつ長方形であるようなものを正方形と呼ぶ。だから「正方形」は回転させなくても「ひし形」であるし、「ひし形」を回転させて「正方形」になるのなら、その「ひし形」ははじめから「正方形」でもあったのだ。
というのはよく考えたら、の話で。ふだん◇を見たら、正方形であってもとっさには「ひし形」と認識するだろう。(そしてそれ自体は正しい。)さらにそれを回転させて□になったのなら、それは「正方形になった」とおもうだろう。こちらには認識の粗さがある。しかしこの粗さにこそ、この二度寝の前の一瞬が、よくあらわれているのである。
うたの引用は新装版『渡辺のわたし』(港の人、2016年)より。阿波野巧也がうたの、一冊の〈わたし〉に意識をあつめて、新装版の解説を書いている。その視点をかりれば、〈わたし〉の認識をできるだけその現場のままに再現している一首とも言える。