村木道彦『天唇』ぐみ叢書,1974(引用は『村木道彦歌集』国文社,1979より)
調子のよいラップを聴いたときのような、軽やかな読後感。それはオノマトペの効果かしら、とも思うけれど、似た音を用いた
自然がずんずん 体のなかを通過する 山、山、山 前田夕暮
と比べると、「体のなかを通過する」ような身体性や重量感は無く、それよりも、どこか浮ついた感じのほうが気になってしまう。
上の句「ふかづめの手をポケツトにづんといれ」は、「づん」という勢いと質感を表現しながらも、一字空けからの四句目「みづのしたたる」で、「ふかづめ」「づんと」「みづの」と、視覚的にも聴覚的にも重ねられている様に気がつきます。
まさにポトリポトリと「みづのしたたるやうな」、耳障りのよいリズムの刻まれている。
さらに結句の「やうなゆふぐれ」も、yo-、yu-と同じ子音のもとで言葉が延ばされています。
これは、歌の場面としていちばん大切なはずの「ゆふぐれ」が、完全にライムで選ばれている、と言えてしまいそう。しかしながら、同じ作者による似たような結末を迎える歌として、
ものぐさに砂踏みゆけば馬が居る うまのにおいのごときゆうぐれ
があることも、忘れてはならないと思うのです。
この歌の場合、「ものぐさ」「馬が」「ゆうぐれ」と、gの音のもとに重きが置かれ、その音に伴ったシミリである「ごとき」がきちんと選ばれている、ということがわかります。
学生短歌会に所属していたころ、結びに「夕暮れ」を用いるのは殆どタブーである、と指摘されたことがありました。
「夕暮れ」は、喚起されるイメージの力がとても強く、なんでもやさしく「なんとなく良い歌」になってしまうモチーフだから、と。それ相当の技量や覚悟がなければ、決して手を出してはならないものだとわたし自身、肝に銘じておりました。
それを、この作者は使いまわしている。
しかも、直喩の表現をそれぞれの歌の調子に合わせることで、「やうなゆふぐれ」では澄んでいて軽やかな、「ごときゆうぐれ」では重たくどんよりとした、まったく異なる黄昏の景色を体現しているようにも思えてくるものだから、とてもふしぎ。
つまるところ、これは「づ」の歌なのだと思います。
跳ねている、浮ついているような言葉たちを、まるで「づ」が重鎮のように、それらを歌としてとどめているのです。
先輩たちの「それ相当の技量」とはこのようなことを言っていたのかもしれないな、と、学生短歌会でのハテナを十年ぶりに回収できたように感じられて、今、とっても軽やかな気持ちです。