走りながら渡されて笑いながら受け取る凧を柄にもなくたずさえて

佐伯紺「手をつないだままじゃ拍手ができない」『たべるのがおそい』vol.7,2019.04

 

気がついたら目の前を、ものすごいきらめきとスピードで過ぎ去っていった。そんな爽やかな若い風を彷彿とさせられました。

 

「走りながら渡されて笑いながら」…動詞がほんとうに「動いて」いるように、言葉がつぎつぎに流れてゆく。

「走りながら」と「笑いながら」の繰り返される「ながら」、そして「渡されて」と「たずさえて」のa・a・e・eの母音の連なり。

響き合う音韻を楽しみながら、初句から結句までを一息に口ずさむことができるのですが、しかし単純な〈速さ〉に終始せず、歌の真ん中の「受け取る凧を」でやや変調します。

 

「柄にもない」は「立場・地位、また能力・性格などにふさわしくない」という意味のさびしい慣用句ですが、ここでは「凧」の柄のことを指しているようにも感じられる。

作中の主体が、柄物でない、何かひとつの色に染められた潔い「凧」を手にしている様子を思い浮かべつつ、それでも、このおかしな勘違いを誘うのも、単調でない〈速さ〉の効能なのだと思います。

 

つまり、すんなりと受け容れてしまいそうでありながら、しかしどこか覚束ない印象を与える〈速さ〉が、この歌の最大の特徴なのです。

走りながら/渡されて/笑いながら/受け取る凧を/柄にもなく/たずさえて

と区切ると、6音・5音・6音・7音・6音・5音。

本来の5・7・5・7・7の定型からは大胆に外れてしまっているのに、「これは短歌だ」と感じさせる調べをたずさえている。

 

「凧」は、糸で牽引して揚力を起こし、空中に飛揚させるもの。上手にあげるためには、うまく風に乗らなければならない。

うまくあがっている状態のものを「走りながら渡され」たところで、〈私〉が立ち止まれば、自らも走って風を拾わなければ、「凧」を使い、遊びこなすことはできない。

ここには、「風」こと「調べ」にうまく乗れるようになることで、一行分の言葉が「凧」こと「短歌」として形を持つまでの、疾走感や、あるいは明るい焦燥感すらまでもが詰め込まれているのではないでしょうか。

 

この不思議な調べは、楽しげに勢いよく「凧」を手渡されて、覚束ない、けれどしっかりと自分なりの「風」を求めて駆けだした、その足取りをパフォーマティヴに表したものであり、「柄にもなく」は、そんな駆け出し・・・・の自分を謙遜して表現したもの、とも読み取れます。

 

この歌を通して考えてみると、たしかに短歌とは、一文を突き抜けるようなひとつの風を拾うことで、うつくしくあげることの叶う「凧」のようなものかもしれない、と思ったのでした。

 

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