山下 翔


外の冷気まといこし猫かきいだく幼き子らを思いいだしつ

宇佐美ゆくえ『夷隅川』(港の人、2015年)

 

「萩」という一連から。日が暮れるのがはやく、もういくぶん寒いころである。わたしの帰りを待っていたであろう「わが猫」が、「啼きながら」近づいてくる。ああ、待っていてくれたのかと、おもわず抱き寄せる。

 

猫にかぎらず、秋も深まったころというのは、ものみな冷気をまとうようなところがある。薄く冷たい透明の布をまとうように、いちまいの冷気がからだを包む。その猫を、ああ寒かったね、こんなに冷たくなって、と抱きしめる。「かき」は接頭語で「いだく」を強めて言うが、まさにそんな感じであろう。

 

うれしくて近づいて、その冷たいものを感じてさらにも抱きとめる。

 

そのとき、ふっとおもいだすのだ。この感触、この場面。むかしむかし、まだ子らが幼かったころ。外から帰ってきた子らをこうして抱いた。そのときもこんなふうに冷気をまとっていたなあ、と。そのころの暮らしの仔細までもが、浮かんでくるようである。

 

ここにしみじみと時の流れを感じるのだし、また、子らの現在へと、おもいは及びもするのであろう。猫を抱きとめたその瞬間、はっと時が戻り、その情景、感覚がおもいおこされるところを、末尾の助動詞「つ」がよく表している。

 

歌集には〈貧しさに途方にくれしその日さえ今ふり向けばきらめきて見ゆ〉という一首がある。猫をかきいだき、そしてはっとして振り向いたかなたに、あの時間、あの場面が、あの日々が、きらめきながら蘇るような一首である。