花と骨、ともに描かれ砂漠にもわたしにもある泉をさがす

山科真白「それからもなほ」『玲瓏』107號,2022.06

 

不思議な引っかかりをおぼえる歌。

作中の主体は「花と骨」が共存する画をまなざしている。そのとき、「花と骨」に対応するように、「砂漠」と「わたし」を並立の関係に置いています。

どちらも「さがす」ことをしなければ見つからないけれど、内なる秘められた「泉」があることを予感しながら。

 

「花と骨」は、生と死、栄と滅、有色と無色…恥ずかしいくらい安易に、様々な対比が思い浮かびます。

(初句と同名の小説が存在するようですが、ここでは名詞のぶつかり合いとして捉えたいと思います。)

そして初句から二句目へは単純な接続ではなく、読点で結ばれている。

「、」は視覚的な効果のほかにも、まるでのどの涸れて発話の引っかかる感じ、唾を飲み込んでごくりとのどを鳴らすときのような一拍を生んでいて、これは、読みあげるうえでも新たなリズムとなっています。

 

そして三句目以降、「砂漠にもわたしにも」へ進むと、その並びに「花と骨」に対するものとはまた別の違和感をおぼえます。

並びを素直に踏襲させると、「花」の位置に「砂漠」、「骨」は「わたし」に当たる。

自らを「花」と同じ位置に置くことの憚られるのは、わからなくもないけれど、「花」と「砂漠」は同じ場所に置かれることのめずらしい、寧ろ、対立の関係にあるもの、のようにも思えます。

あるいは「花」が世界の外部を、「骨」がその内部を表しているのだとすれば、涸れるものの実感をともなった対比である、ということもできるでしょうか。

これらの、選ばれた言葉に対してどこか違和感、引っかかりを覚える様子は、さきの「発話の引っかかる」状態と重なり合います。

 

「骨」、「砂漠」、「泉」だけを見ると、水の涸れによってもたらされる、さまざまな〈枯渇〉の表象のよう。

けれど、そこに「花」や「わたし」が加わることで、水性に限らない、何かしらの特異な〈潤い〉を求めているようにも受け取れます。

「花と骨」、「砂漠にもわたしにも」の不思議な並びを抱えるこの歌の構造上においても、言葉たちは乾湿の単純な対比からはみ出している。

…ここで、この歌の世界だけの〈潤い〉が何であるかを、「泉をさがす」ようにわたしたちも思いを巡らせていることに気がつくでしょう。

 

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