水澄まし季節に遅れ水を蹴る人を想うはひそかなこころ

三枝昻之『天目』(青磁社、2005)

 

「水澄まし」というと、そのものミズスマシを指すこともあれば、アメンボのことを俗にそう呼ぶ場合もある。そのあたりの経緯や、例句をたどりながら季語としての一面も調べるとたのしいのだが、ここでは「水を蹴る」であるから、アメンボのこととして読む。

 

水面に六つの脚をたたせて浮いている、あのからだ細い虫である。足の毛が水をはじく表面張力で浮いているらしい。なにやらリニアモーターカーのよう(全然違います)。すいー、すいー、と水面を蹴って、アイススケートのように滑る。漢名に水馬と書いたりもする。水の馬。いかにも夏の光景である。

 

うたは「季節に遅れ」である。一連一首目に「晩秋初冬」とあるので、その頃だろう。ただでさえ激しいとはいえないその動き、季節に遅れ、いよいよ乏しく、まさに「ひそかな」るところである。

 

この「ひそか」をうけつつ下の句がある。……水を蹴る、そのように、人を想うというのはひそかなこころであることよ、と。このさりげない接続に惹かれる。

 

晩秋初冬のころを、ひとしれず水面ゆく水澄まし。またそのころ、ひそかにも人恋うるわたし。だれかれを想うとは、それをおおっぴらに言い立てるのではなく、こころのうちに、おもいを深めていくものであるという、しずかな矜持もまた、滲むような一首である。

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