その頬は夜空あおぞらうつす頬 いらないよ、一輪挿しの言葉は

大森静佳『ヘクタール』文藝春秋,2022.07

 

とてもびっくりした。それを拒むのか、と思ったのは、きっとわたしだけではないでしょう。

 

作中の主体は、誰かと程よい距離を隔ててそこにいる。それは、「この」でも「あの」でもない、「その頬」という指示語から受け取った情報です。

下の句がちかしいひとに向けた発話であるということは、少なくとも、敬語が用いられていない、という点で把握することができるでしょうか。

二者の状況として描かれているのはこのことくらいで、実際にどこにいるのか、どんな関係であるのかは、わたしたちの読みのちからと想像力に任されています。

 

つづく二句目からの「夜空あおぞらうつす頬」。

言葉の意味のうえだけでなく、「空」・「そら」の書き分けによって、それぞれに昼・夜の特質がうまれるようです。

けれどこれは陰と陽や、光と影のような関係ではなく、夜空は星によって、あおぞらは太陽の光によって、どちらも〈光〉を抱いているように見える。

澄んで晴れ渡った天を彷彿とさせられるのは、「その頬」に「うつ」っている景を想像しているからかもしれません。

 

鏡のような、水面のような「頬」をもつそのひとに、語り手は下の句で語りかけます。「いらないよ、一輪挿しの言葉は」。

一字空けからの「いらないよ、」は、呼びかけの「よ」に重ねられるようにして置かれる読点によって、より発話の感が強められています。そして結句。

倒置によってますます強調されるそのフレーズを見たとき、短歌というものはすべて「一輪挿しの言葉」ではないのかしら、と思ったものだから、最初に申し上げた通り、とてもびっくりしたのです。

 

でも、どうしてこの歌の〈私〉はそれを拒むのだろうと考えていたとき、つぎの歌が目に入りました。

 

遠くからあなたを見ると白木蓮のどがかわいてしかたないのだ

 

不思議だったのは、「白木蓮」を抜かしても意味の通る言葉の連なりであるところ。

けれど、とつぜん挿しこまれたこの花によって、つまりこの「白木蓮」が言葉を「一輪挿し」にしたことによって、それが短歌として立ち上がる瞬間を目の当たりにしたのです。

 

もう一度きょうの歌に立ち戻ってみましょう……つまり言葉を「一輪挿し」にするその役目は、自らが担うもの。美しい「その頬」によってもたらされるものではなく、与えられるものではない。

光って見えたのは、そのひとがまなざす「頬」でも「空」「そら」でもなく、〈私〉のするどい意志だったのだと、そこでようやく気がついたのです。

 

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