井上 法子


さかなへんの字にしたしんだ休日の次の日街できみをみかけた

正岡豊『四月の魚』まろうど社,1990(引用は現代短歌クラシックス03,書肆侃侃房,2020.08より)

 

言葉がぷかりぷかりと浮かんでいるような、つかみどころのない不思議な歌です。

「?」と感じて、何度も読み返してしまう。

ひとこともそうは言っていないのに、何故か水の中にいるような感覚も覚えます。

 

初句から二句目、「さかなへんの字にしたしんだ」。

魚編に弱と書いて鰯いわし、虎と書いて鯱しゃち……と考えていると、小津安二郎の映画の中で、老教師が「さかなへんにゆたかと書いて鱧」と呟いて、美味しそうにハモのお吸い物をすする、というシーンが頭をよぎりました。

作中の主体はお寿司屋さんへ行ったのでしょうか。思い浮かんだのは、魚の漢字がたくさんプリントされた湯呑みや、渋いお品書き。
あるいはもっと単純に、漢和辞典をぱらぱらとめくっていたのかもしれない。

 

「したしんだ」を初読の折、「したんだ」に空目してしまったのは、語り手のカジュアルな発話に引きずられたのかもしれません。そうすると歌の調べが破綻するので、もう一度文意を確認しながら、ゆっくりと目を通す。

そうして「したしんだ」=「親しんだ」と取りましたが、この「確認しながら、ゆっくりと目を通す」をしたとき、

さかなへんの/字にした/しんだ休日の

と、上の句を5・7・5の定型(この歌の場合は6・4・8音ですが)に区切ると、とつぜん「しんだ」が顔を覗かせてびっくりする。

そして「休日」にかかる言葉に注意深くなったところで現れる、その「次の日」。

「休日の次の日」という言い回しも不思議ですが、語句を切る場所によって、〈私〉が「街できみをみかけた」のがいつの出来事なのかが変わってしまう。

上の句ではすてきな休日の過ごし方が詠われていると思っていたら、下の句で「きみ」を「みかけた」とたん、歌のすべての時間軸が揺らぎ始めるつくりになっているのです。

 

そして、この歌はところどころがひらがなに開かれています。

魚編の字に親しんだ休日の次の日街で君を見かけた

こうして漢字で表記するよりも、「さかなへん」、「したしんだ」、「きみ」、「みかけた」とやさしくひらかれた箇所を読むとき、ぼわんと音の広がるような感覚を、視覚と聴覚の両方に訴えるように記されている。

これは、水中で音を拾うときの感覚に似ているのかもしれず、それゆえ冒頭の「水の中にいるような感覚」に至ったのでしょうか。

 

読めば読むほど、謎は深まるばかり。いつのことなのか、どこにいるのかがわからない歌、というのはともすると、読み方によって、言葉の力によって、どこにでも存在することのできる歌。

言葉(テキスト)に対する冒瀆は、むしろどこかに「当て嵌めよう」とする、その短絡さによって引き起こされるのかもしれない……ということを、この歌をじっくりと読みながら、改めて思い出したのでした。更新が遅くなってしまってごめんなさい。