上坂あゆ美「生きるブーム」『短歌研究』,2022.08
この週末は本当にほんとうに暑かった。洗濯ものがあっという間に乾いて、ほんのちょっと外出するだけでも命の危機を感じた。まあでも、今年は酷暑と言われているし、温暖化は進んでいるし、夏だしね。当たり前よね。仕方ないよね…と、納得せざるを得ない、自然の力に組み伏せられたような瞬間の戸惑いを、この歌を読んだときにも感じたのでした。
上の句「弱いもの順に腐ってゆくことの」。「弱いもの」は足のはやいもの、食材の消費期限が短いことと取りました。
でもそう考えると、単純でない表現が用いられていることに気づきます。なのに、すんなりと意味を掴むことができる。
鮮度の良さを弱さとして捉えること、括ることで、「腐ってゆく」のが順当なことと思わせる力学が働いているのです。
そこから下の句に差し掛かるにあたり、あらわれるのがまさしく「正しさ」です。
弱いもの順に腐ってゆくことの/正しさ
と、かみしもの境目である「ゆくことの」から「正しさ」にひと拍、息を吸い込むような間が含まれている。
これは緊張しているときに、息をのんで、あるいは覚悟をして何か重要なことを発言する際の口ぶりを彷彿とさせられます。
実際には、その「正しさ」のあとに一字空けがなされている。
語り手の詰まりそうな息の吐きどころを視覚的に提示されたからか、わたしたちはどこかほっとして、その連なりを眺めます。
最後には決め台詞のように、さらに覚悟のひとことが待ち構えてる。「夏はあまりにも夏」。わたしたちはもう、本当にそうだとしか思えなくなる。
この歌を目にしたとき、平岡直子さんの
あかるくて冷たい月の裏側よ冷蔵庫でも苺は腐る/『みじかい髪も長い髪も炎』
を思い出したのですが、今日取り上げた歌の場合は、もっと明け透けに「弱いもの」をまとめて指示しているためか、「あかるくて」の歌の中の「苺」と比べると、生命のふるえや輝きのような繊細さは光らないけれど、
それが、一字空けからの「夏はあまりにも夏」の「あまりにも」感を際立たせているようにも思えてくるのです。
何が正しいのかは実際には不透明なのに、「正解」を感じ取ってしまうことがある。
その切なさ、遣る瀬無さは、日本の夏のねっとりとした暑さに対峙したときの絶望や諦念と似ているのだと、そしてこのことは、このひと夏にしみじみと、何度でも感じるのだろうと思ったのでした。
今日から、やっと八月。