渡辺松男『牧野植物園』書肆侃侃房,2022.06
いったい、どのような境地に辿り着いたら、この歌を詠めるようになるのだろうと思う。
上の句、「わが妻の死ににしことも羽ばたきか」。
わたしの妻が死んでしまったこと、そのあとに「も」が置かれているので、他の何かのものとともに、あるいは強調をともなって、語り手は「羽ばたきか」と世界に呼びかけます。
羽ばたく、という言葉の抱えているものは、鳥が飛ぶ際に、翼を大きく上下させる動作のこと。そして飛び立つ際の動作であることから、人間社会における比喩的な意味も持ち合わせています。
前者のほうで解釈すると、亡きひとの魂が羽ばたいて、此岸から彼岸へと旅立つさまを言い表しているのかもしれないし、
後者のほうでは、にんげんの成長の到達点を「死」と考えて、その最後のひとかきを捉えたものなのかもしれない。
もっと大きな、わたしたちそれぞれのもつ羽ばたきのイメージに依る表現なのかもしれない。
どの場合にせよ、「羽ばたきか」で綴じられる上の句では、心からの嘆きとこころの叫びの混ざり合った、複雑な調べを感じることができます。
そうしてやってくる下の句、「花みずき眼にいりて擾乱」。
花水木の大きな花弁が、妻を亡くした〈私〉の「眼」に飛び込んでくる。語り手はそれを一言、「擾乱」と語り、沈黙します。
この歌は鎮魂歌のような趣で始まり、しかしながらつぎの瞬間にあらわれる花々によって、この騒がしい色彩によって、歌の世界はかき乱されてしまう。
そして、本来「花みずき」は明るい色をしているはずなのに、それは哀しい色として、わたしたちの心にもにじみだすのです。
〈私〉の心の入り乱れる様をも彷彿とさせられながら。
驚いたのは、ここには感情が一切描かれていない点。
「死」そのものを美化することを疑問視し、寧ろ拒んでいるかのような、かみしもをつなぐ三句目の「か」。
そしてその烈しい光景とともに、哀しく、美しく、凄まじい嘆きを、わたしたちは目の当たりにするのです。