蠟燭が花を大きな影にする きのふを明日とよびかへてみむ

大地たかこ『薔薇の芽いくつ』(本阿弥書店、2022年)

 

蠟燭の火が、花の影をつくる。「大きな」と言うから、影のうつるところが遠いか、火と花が近いか。たとえば仏壇のようなところを想像した。

 

うたは「蠟燭」そのものが、「花」を「大きな影」にかえてしまう、という書き方でしめされている。この大胆な省略につかまれる。そこには周囲の状況というものがなく、蠟燭と花と影だけが輪郭濃くあるようだ。

 

その印象的なシーンから、わたしのこころは「きのふを明日とよびかへてみむ」とおもう。上の句と下の句のあいだの一字あいたところに、「そのやうに」を、あるいは「それはさうとして」を補ってみる。「きのふ」を「明日」とよびかえることは、「花」を「大きな影」にすることになぞらえられるし、いやいやそんなことは関係ないよ、と読むこともできる。

 

そのあわいのところで、一首は立っているのだ。

 

「きのふ」は「明日」ではないのだから、これもまた大胆な発想の転換である。しかしここに、その気負いはむしろあわい。ごく自然なる連想のようにも映る。「べし」ではない、「む」という助動詞がそうおもわせるのかもしれない。

 

ある達観のようにもみえるが、ただ「今」だけがはっきりとあり、すぎた時間、またやがて来る時間がひとしく遠く、また境なくあるような、厳しい状況を伝えているようでもある。

 

一連は「のつぺりとした一日」という題で、コロナ禍初期、二〇二〇年の春をうたう。得体のしれないものをまえに、なにもかもがストップしてしまったあの頃の、その「のつぺりとした」日々に、なにか変化を求めるようなこころもまぎれていよう。

 

「きのふ」を「明日」とよびかえてみても、ラベルが変わっただけで「きのふ」は「きのふ」である。しかしそれだけのことが、こころもちを明るくも暗くもする。蠟燭とわたしのあいだに花があった場合、逆光のかたちになり、花はまさに大きな影になる。すると一字あけにこもるのは、あるいは「であればこそ」という、苦境を逆手にとるようなしずかにつよいこころであるのかもしれない。

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