ふとぶとと水を束ねて曳き落とす秋の滝、その青い握力

大森静佳『ヘクタール』(文藝春秋、2022年)

 

先ごろ岐阜から富山まで、下呂、高山をとおって電車で行くことがあった。飛驒川に沿って、谷をいき、山をいき。途中、車窓からちいさな滝が見えた。ほそい水の流れが、たまたま崖に添うような、滲むような這うような滝であった。

 

掲出の滝は、いかにも迫力がある。「ふとぶと」「束ねて」「曳き落とす」である。大きな川が、その勢いのままにとびだして、落下するような滝をおもう。むろんうたは、このおのずからなる滝の成り立ちをなぞるわけではない。滝そのものの「握力」によって、みずからの離れようとする水を束ね、散漫になってしまうその流れを握りしめ、ひといきに曳き落とす。そういうふうに、滝を見ている。

 

「秋の滝」である。夏の力みなぎり、もりあがる、あるいは涼しげな滝とはちがう。また冬のとぼしい、きびしい滝ともちがう。完璧な〈静〉という感じで、そこに滝という主体を感じさせないし、また見る者に滝のうちがわ(こころのようなところ)にはいっていく隙を与えない。

 

鑑賞者のわたしは、この滝を、あるいは車窓のむこうに見るように、一首のなかに見ている。だからこそ〈静〉を感じとるのかもしれない。滝の肉体に触れずにいる余裕と言ったらよいか。いずれにしても、滝はその美しいすがたのうちに、みずからを厳しくただすような、しぼりこむような、つよい力を秘めているのである。

 

やはり結句の「青い握力」にしびれる。その力さえ、美しいとおもってしまう。水、滝であるから、「青い」力は見えない。美しさにはりつき、まぎれ、しかし除きがたくある〈力〉というものをおもってしまう。あるいは力そのものが滝であり、滝そのものが力であるように、あまりにも現前化しすぎたためにかえって隠れてしまった力をおもう。

 

下の句が句割れをおこしながら、流麗な上の句をたちきっている。「秋」「滝」「青い」「握力」の頭韻が、殴るようにひびく。

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