落合直文『萩之家歌集』,1906
霧がかった夕方。「見えわかねども」、不思議な風音に耳を澄ませながら、あちらのほうにきっと「湊」があるのだろう、と語り手はいう。
わたしたちの眼前には、かれの言われるがままに様々な光景が繰り広げられます。
黄昏が淡くぼやけ、「松」の葉の鋭い緑がよぎる。その間を通ってこちらにやってくる風の色や音を思う。
そして最後に、「湊」の置かれている海へ。
この歌の肝はわかりやすく、三句目から下の句へと差し掛かる、その間に流れる「松風の音」。
細くしなやかな松の葉が、風にのって四方八方に揺れる。
それは葉っぱがかさかさと鳴るのとは異なる、砂や潮を含んだ、質量をもったふしぎな音です。
茶釜に湯が煮える音のことも「松風」と言われていて、確かに、ちゃぷんとお湯の撥ねる音は、風に混じってときおり届く、やわらかい波の音のようです。
それらの、さまざまな素材を含んだ風の音を、この歌では最後に辿り着く「湊」が抱きかかえています。
だからこそ、「港」ではなく、水を表すさんずいに「奏でる」を当てた字を用いられていることに気づくことができる。
この歌の世界には音だけが存在しています。それはわたしたちの耳にも届くほど、鮮明に。
でも言い換えれば、これは実のところ、はっきりとは何も見えていない歌。
友人と旅先を散歩している際、きっと少し先のほうに松林がある、と言い当てて驚かれたことがあったけれど、それが聴覚に導かれたのだということを、この歌に教えられたのでした。
わたしの郷里の港町にも、津波で流されてしまう前までは、かわいい松林があったのです。