〈どこからでも切れます〉とある小袋のどこをどうやってもダメな朝

大西淳子『火の記憶』(青磁社、2022年)

 

たとえば朝だと納豆のタレ。その「小袋」の一辺に、「どこからでも切れます」と書いてある。そのとおりにやってみるのだが、「どこをどうやっても」うまくいかない。手を拭いて、小袋のぬめりもとって、もういちどやってみる。やっぱり「ダメ」。位置をずらしてもういちど。それでも「ダメ」。

 

ああ「どこをどうやってもダメな朝」である。結局さいごはハサミとか包丁とかもちだして、切れ目を入れることになる。はやい段階でそうしていればいいのだが、しかし「どこからでも切れます」とは何だったのか……。いやあな感じだけが残る。

 

よくある場面である。身に覚えがある。(いまのわたしは朝から納豆たべないけれども。)

 

ただこのうたは、そのよくある一場面をえがいておもしろいだけのうたではない。上の句と下の句をつなぐ「の」である。この「の」が、上の句でひとつ場面を例示しながら、そのほかあまたある「どこをどうやってもダメな朝」を引き寄せる。

 

「小袋」にかぎらず、ありますよね、「どこをどうやってもダメな朝」……。まだ朝だというのにうんざりする。嫌になる。腹が立つ。いや、そこまではないにしても、「どこをどうやってもダメ」というのは、それだけでけっこうまいる。

 

〈どこからでも切れます〉と書いてある。この「どこからでも」というのがくせものだ。「ここからしか切れません」なら、気持ちのおさめどころもあるが、「どこからでも」なのだ。どこからでも切れるのに、「どこをどうやってもダメ」。これがこたえる。

 

無限の可能性があって、そのどれかひとつでもつかめたらいいのに、ただのひとつもつかめない。それも小袋たったひとつの。どこか卑屈にもなりたくなるような一首である。

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