青き布ひろげてなにもなきごときいいぢやないかそれで山のみづうみ

渡辺松男『牧野植物園』(書肆侃侃房、2022年)

 

「山のみづうみ」、山にある「みづうみ」の、あのいかにも一枚、というすがたをおもいだす。「青」い面がひとつあってそれだけ。波もない。流れもない。濃淡もない。たとえば海とは、川とはずいぶんちがった貌をしている。

 

おおきい湖、ちいさい湖さまざまあるが、山ではないところだとどうだろうか。琵琶湖は波があって松原があって、ほとんど海である。宍道湖は、時間によって港にも河にも見えた。「山のみづうみ」でも、どの位置に立って見るかで、見えるものはずいぶん違うだろう。そこには心象風景的、あるいは回想的に見る、という立ち方も当然ふくまれる。

 

うたはこの「みづうみ」を、「青き布ひろげてなにもなきごとき」とうたいおこして、この「ごとき」の連体形が、最終的に「山のみづうみ」にかかっていくわけだが、そのあいだに、「いいぢやないかそれで」という声がさしはさまれている。

 

「ひろげて」の「て」がどのくらいの時間を渡すか。包みをひらくように、いままさにここで布をひらいてそれが水面となるのか、それとも、すでに布はひろげられている状態にあるのか、さだかではない。

 

いずれにしても、なにもない「みづうみ」の、それを「だからこそよい」とたとえば言うのではなく、そのなにもなさを、ただ、「いいぢやないかそれで」と言う。「だからこそよい」というような価値判断を経由せずにいう。

 

ここにあるのは、なにもないその「ありのまま」を肯定するのでさえない、もっとたいらな姿勢であるようにおもう。それは、パーレンで括るでもなくごく自然にここに声がはいってくることと、あるいはひとつらなりのこころの向かい方ではないだろうか。

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