山階基「ファンタスマゴリー」『短歌研究』,2022.06
語り手の、あまりにも直截な物言いに、一瞬ことばが詰まってしまう。
幼い子からまっすぐな問いをぶつけられたときのような、驚きと共感が胸に迫る歌です。
上の句、「炭酸を吐きっぱなしの炭酸水」。言われてみると、確かにその通りで、
けれど、例えば「吐き続けている」や「吐きながらいる」といった継続の表現と比較すると、「吐きっぱなしの」という語句は、確かに選び抜かれてそこに在る。
炭酸のあぶくの弾けるさまや、この歌のあっけらかんとした語り手の口調にとてもマッチしています。
そして下の句、「もとの暮らしが戻るってなに」。
おとぎばなしで耳にした記憶のある、「もとの暮らしに戻りましたとさ」というくだり。あるいは誰かの、「早くもとの暮らしに戻りたい」という悲痛な吐露。
「もとの暮らし」とは、環境が激変したことに対する、その出来事より前のこころの居場所を指していて、また、そのたった一言で、変わり果ててしまった世界のほうを指し示すことのできる言葉です。
それは、きっと数えきれないほどにある。
にんげんに限らず、この世界に生存する・していた生き物のすべてに、きっと「もとの暮らし」があるのだと思います。
身も蓋も無いと感じている、つまりはその言葉に共感しているはずなのに、「炭酸を吐きっぱなしの炭酸水」、そして「もとの暮らしが戻るってなに」、そのどちらも、そう言われて初めてそのことに気づくことができる。
そのとき、これらの言葉に対して、そしてこの「初めて気づく」ということ自体に、わたしたちは心底びっくりする。
この驚きは、炭酸水の炭酸がわたしたちの舌を刺すように、「もとの暮らし」に対する安直な、穏やかなノスタルジーを覆し、変わらざるを得なかった過去を、そして決して変えることのできない現実の世界を突きつけるようでもあります。
つまり、身も蓋も無さに宿る直截さ、言葉の速さや鋭さが、柔らかい詩情で包み込まれているのです。その巧みさに舌を巻く。
そうして、わたしたちはつねに誰かしらの希った「もとの暮らし」に生きているのかもしれないな、と思う。
今日は、終戦の日。