もう一度踏まえたうえで介入を クルトンはもう違う食べ物

苺宮角『短歌研究』,2022.07

 

何かが著しく「失敗した/している様子」をとらえている。それなのに、何故だかほのかに勇ましいような、ふしぎな歌です。

 

上の句、「もう一度踏まえたうえで介入を」。

出来事の「一度」めの経験によって得た教訓を、きちんと「踏まえたうえで」、再び「介入を」試みるよう述べる語り手。

「~を」での言いさしのかたちは、「~しなさい」が省略されたものと取りました。

「介入」と言っているので、謎の人物が何かと何かの間を取り持とうとしている。

 

さらに一字空けからの下の句、「クルトンはもう違う食べ物」。

シーザーサラダなどのトッピングや、スープの浮き実に使われる「クルトン」。食感や味わい、風味を添える素材として親しまれているものです。

改めて考えてみると、クルトンがその「素材」の力を発揮できるのは、短くて限られた時空であることに気づいてしまう。

「もう違う食べ物」というのは、その役割を果たした後の、哀しい様子のことかしら、「もう」という言い回しに、不服さ、物足りなさが表れているようでもあります。

 

それにしても、この歌はいったいいつ、どこで、誰が、何のことを、どうして詠っているのだろう。

5W1Hのいずれかを欠けることでぐっとよい歌になる、というのは、歌書に記してあったことだけれど、この歌の場合は、そのどれもが謎に包まれています。

 

じっさいに「介入」を試みるのはとても勇気のいることだし、何かがその性質から逸脱してしまって、本来の役割を果たすことのできないさま、それを指示することも、まっすぐなまなざしと覚悟の必要なこと。

それらに挑む様子は果敢でもあって、きっぱりと何かを言い切るこの語り手の口調と重なりつつも、何も明らかにすることはない。つまり、上手にうやむやにされているのです。

 

この歌に対する読みの試行錯誤の過程で、そして「クルトン」の歯ざわりのように短い歌の調べのなかで、言葉が新しい職務を全うしようとしているように感じた、そのことにちょっとびっくりしたのでした。

 

新人賞の予選通過作品を眺めていたとき、なんだか不思議とこころに引っかかる、奇特な作品として印象に残ったものを。

 

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