今井恵子『運ぶ眼、運ばれる眼』(現代短歌社、2022年)
しばらくのあいだ、ごう、と強いかぜが吹いて、葦群の葦たちがそのかぜの吹くのにまかせて、身をそらしたりたおしたりしている。風がおさまれば、また、もとのように体をおこし、なにごともなかったかのように風景へかえっていく。
なんということもない一場面である。もっと言えば、「葦」をえがいてある典型でさえある。
しかしこのうたの迫力は、この「風」というのを結句までおいておくことによって、「身じろぎ」して、やがて「立ち上が」る、というその葦の一連のうごきを、いくぶん暗喩的につたえているところにある。「ひとしきり」とはいいながらも、それをほんのひとときとはおもわせないのだ。
鑑賞者のわたしは、たとえばそこに、「身じろぎ」し、やがて「立ち上が」る人の姿というものをおもい、すくなくない感情移入をしてしまう。三句でそれが「葦」であることをわかりながらなお、である。
そうして結句の「風ゆきし後」が、すばやくその世界をとじるのに、ふたたび摑まれる。ああ、これは葦であったのか、とここでついに納得する。葦群、立ち上がりたり、風のa音をそのまま引き受けてさいご「後」と読んでもいいが、わたしは「後」と読んで、そこに重しのようなものを添えてもいいようにおもった。