大雷雨すぎたるしじま小鳥らの喉の渓流しぶきはじめぬ

小島ゆかり「月組さんの動画」『短歌研究』,2021.10

 

夏の驟雨。それが行き過ぎたと気づくのは、鳥の声や虫の音が聞こえ始めたとき。

この歌は、その瞬間の(まさに)晴れやかな気候と気持ちを詠ったものと取りました。

 

「大雷雨すぎたるしじま」。そう言われると、「大雷雨」のあとに「しじま」がやってきたわけではなく、もとから在った「しじま」に「大雷雨」がやってきたようにも見える。

わたしはもとからここにおりましたよ、とでも言いたげな、ひらがな表記の「しじま」の、とぼけた表情が目に浮かびます。

 

つづく、「小鳥らの喉の渓流しぶきはじめぬ」。

小鳥の鳴き声を「喉の渓流」と表したことで際立つのは、その爽やかさだけではなく

「大雷雨」が天から地に向かって、いわばタテに滴していた水の動きが、「渓流」の登場によって、ヨコに流れる水の動きへと移り変わります。

停滞していた雨雲が流れ去って行ったように、照り始めた陽光を浴びた小波の、「しぶきはじめ」る美しい川の光景へと、場面がきれいに転換されているのです。

 

しじまと、そこに少しずつ響きはじめた小鳥の声。

とても静かな光景を詠っているはずなのに、ふしぎと賑やかな印象を残すのは、

「大雷雨」と「小鳥」、「しじま」と「しぶき」、それぞれ相反するもののようでありながら、表現のうえでは呼応するように詠まれているからでしょう。

登場するものたちがそれぞれに呼びかけ合うことで、言葉の上を生き生きと立ち上がってゆくのも楽しい。

 

(ところで、初読の際に「小鳥ら」を「小島ら」と空目してびっくりしたのはわたしだけかな…)

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