はや葉月 街のはなやぎ運び来る友の日傘はまぶしすぎるよ

永井陽子『小さなヴァイオリンが欲しくて』砂子屋書房,2000.01

 

嬉しくて、ほのかにさびしくて、それでもどこかあたたかい。

寂しさを感じ得るのにあたたかいとは、不思議な美しい歌だと印象に残っていました。

 

「はや葉月」、きょうでもう今年の八月は終わってしまうけれど、そのはじめのあたり。

「街のはなやぎ運び来る」とあるので、この歌の作中の主体はおそらく「街」ではない場所に身を置いている。

あるいは上の句のとつぜんの一字空け、そしてそののちの下の句で、「友の日傘はまぶしすぎるよ」と続くことから、「街」との物理的な距離の隔たりがあるというよりも、心理的な距離、つまり「はなやぎ」とはかかわりの薄いところに居るのだろう、と読むこともできそうです。

 

「街のはなやぎ」という言葉の本来もつ意味、それこそ賑やかで、人がたくさんいて、明るくて……といった要素が、「はなやぎ」という形態を持たない不思議なものへと姿を変えています。

 

「友」が眩しく見えるというのはよくわかることだけれど、語り手の「まぶしすぎるよ」と言っているのは「日傘」のほう。

つまり、その光源は「友」を通してまなざす「日傘」の、そこを照らしてみせる日の光りのほうにある。

 

「はなやぎ」というときに思い浮かぶ「はな」の景と、「日傘は」というときの「日」とが手を取り合って、まるで花降るなかで「友」がこちらに来る様子まで幻視します。

無闇にひとを眩しがるときにうまれる、嫉妬と紙一重の羨望のことではなく、その耀きを直に美しいものとして指し示しているのが、読み手であるわたしたちにとっても、とても心地よい。

 

上の句の、「はや葉月」「はなやぎ」「運び来る」の「は」の音の連なりは、まるで言の葉がさらさらと零れ落ちてゆくようです。

そしてそれは、下の句に登場する「傘」というアイテムが拾い、歌全体があかるい光りに包まれてゆく。

だからこそ「あたたかさ」を感じるのでしょう。大好きな歌です。

 

(追記:「大好きな歌です」と書きながら、記憶違いによる大きな誤記をしてしまいました。

通常であれば引用歌は何度も表記を確認するのですが、この歌に限っては、その思いの強さが筆を走らせてしまいました。

作者である今は亡き永井陽子さんに、そしてこの歌を生きる言葉たちに、心からの謝罪を申し上げたい気持ちでいっぱいです。)

 

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