𠮷野裕之『ざわめく卵』砂子屋書房,2007.06
(引用は『𠮷野裕之歌集』,砂子屋書房,2022.04 より)
この歌を読んで、まずはじめに感じたものは貴さでした。だからこそ、静かなしずかな歌なのだと。
「美しい静けさはあり」…恥ずかしながら、静けさというものはすべてがうつくしいものであると思いこんでいた。
たとえば、そこが凛とした空気を纏うとき。音色が侵さずに佇んでいるとき。あるいはその「静けさ」そのものが、目の当たりにしている光景を補完している、と感じられるようなとき。
ところが、三句目であらわれるのは「懐かしさ」という意外な語句。
わたしたち読み手は一瞬戸惑いますが、語り手がそののちに「かもしれない」と続けることで、この謎を甘美な余韻として味わうことができます。
さらに、「といいて頷く」とあるので、そこは実はひとりきりの、孤独な場所ではないらしい。
別の誰かに語りかけているようでもあるし、もしくは自分自身に言い聞かせているのかもしれない。
大切なのは、美しさ、静けさ、懐かしさ、そのいずれをもまとめあげる特別な感応に対して、無言のままに頷く「(〈私〉であるかもしれない)誰か」がいるということ。
つまり、この歌のいちばんの魅力は、具体的なことは何も指示していないはずなのに、不思議と分かり合える「誰か」が存在しているところ。
それはきっと、読み手であるわたしたちの誰かでも良い。
最後の「頷く」が現在形であることで、この歌がかぎりのない時空に身を置いていることからも、そう読むことのできると思うのです。
そして、この「かぎりのなさ」に身を置くということこそが、「懐かしさ」とよく似た「静けさ」の存在する瞬間なのかもしれないと、ひっそりと思ったのでした。