もうざふきんみたいになつてわたくしのすこし上手に眠れよこころ

今野寿美「あつちもの」『短歌』,2021.10

 

いったい、どこに視点を有しているんだろう。

まるで幽体離脱のような趣きがあります。……と書いて、ハテナ、それはいったいどんな趣きなのだろう、と、初読の際は二度も首をかしげていました。

 

「もうざふきんみたいになつて」。

「ぼろ雑巾のように」という慣用句は、粗略に扱われたり、こき使われたりして、心身ともにぼろぼろに疲れ果てたりしているさまを言いますが、

この歌に「ぼろ」は出てきません。それでも、その一歩手前の、疲れ果てた、使い果たされたものの表象として「ざふきん」という要素が選ばれているのかな、と取りました。

 

つづく「わたくしのすこし上手に眠れよこころ」。

これは、かみ砕くと「わたくしのこころよ、少しは上手に眠りなさい」という意味でしょうか、

あるいは肉体と精神とを分別して、「わたくし」の肉体は疲れ果ててしまったので、「こころ」よ、少しの間じょうずにねむりなさい、といったニュアンスの呼びかけでしょうか。

いずれにせよ、歌の腰である三句目「わたくしの」が、内容のうえでも、調べにおいても、独特の存在感を放っている。

 

「わたくしのこころ」と詠っているはずなのに、歌の中では「わたくし」がぽっかりと浮いていて、その「こころ」が独立した意志をもっているような不可思議さ。

これらが、「幽体離脱のような趣き」の正体なのかもしれません。

 

おそらく、原因のひとつは上の句の冒頭の「もう」、そしてもうひとつは下の句の冒頭の「すこし」。

上の句の「もう」、それは〈もはや〉〈既に〉という意味合いの「もう」なのか、

あるいは感動詞的に用いられる〈まさに〉〈なんとも〉という意味合いの「もう」なのか。

下の句の「すこし」の指示する対象は眠りの加減のことなのか、睡眠時間のことなのか。

 

これらの言葉が柔らかく用いられている、そのことによって、三句目直前の接続助詞「て」の解釈を彩ることができる。それがこの歌のおもしろさのひとつと思うのです。

つまり、読みの答えはひとつだけではなく、数多存在する。それがちっともぼろの出るようなつくりにならないところ、さすがだなあと眩しく思ったのでした。

 

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