高野公彦「「カノン」の迷子」『短歌』,2020.11
一読して、まるでARで自然の世界を体感しているかのような錯覚を覚えました。
はじめは身近な「森」を歩いていたはずの作中の〈私〉が、いつの間にかに月面着陸していることにややびっくりします。
「森を歩す、新秋を歩す」。夏の盛りを過ぎて、木の葉から徐々に艶めきが消え、陽の色に染まってゆく、そのあたり。
暑さも落ち着いて、それはお散歩をするのに一年でもっともちょうどよい季節です。
こうして想像するだけでも、「森を歩す、新秋を歩す」の快さ、楽しさを感じ取ることができますが、
この語り手も、読点によって思わず畳みかけるように、軽快にくりかえしの動作を唱えます。
まるで心の動きが視覚的にも表現されているようです。
しかし、つぎに繋げられるのは「美しき言葉のありて」。
そこで巡り逢うのは、わたしたちの想像した自然の美しさや快さだけではなく、それらを取り巻く「言葉」であるところ、
あるいは「森」や「新秋」を歩くときの高揚感と、それらとは関係なしに「美しい言葉」と出会う瞬間の時めきとが、並列の関係に置かれているのかもしれません。
そしてどちらの場合にせよ、作中の〈私〉の軽快な調子は変わらず、そのこころのままに「いま月を歩す」。
ここでとつぜん現れる「月」に圧倒されてしまいますが、
(確かに、お月見があったりして、秋はぐっと「月」が近くなるものですが、)
ふりかえると、「森」はまだしも、「新秋」を歩く、とはなかなか不思議な表現であることに気がつきます。
そして、実は視界が徐々に広がっていることにも。
「森」を、そこから「新秋」を、さらには「月」を歩く、という同じ動作の延長上で、視界と時空がどんどん拡張されてゆくのです。
これが、さきに感じたAR感の正体でしょうか。
ここ最近、夜半の涼しさ、を通り越した肌寒さの、ときおり身に沁みるようになったことを思い出しつつ、この歌をじっくりと味わっていました。