畑中秀一『靴紐の蝶』(現代短歌社、2022年)
こういう朝があるということは、そうではない朝もあるのだろう。ふたりはすでに一緒に暮らしているか、たがいの家を行き来するような関係、しかしまだ、恋愛のただなかにある、というふうに読んだ。あるいは場面はホテルかもしれない。
さりげない場面である。洗面台にきみの歯ブラシが立ててある。わたしのもあったかどうか。その傾いて、鏡のほうを向いている歯ブラシを、なにげなくこちらへ向ける。だからどうなる、ということでもないが、おのずから手が動いた。そういう気分なのだ。
こちらへ向けて「みたりする」、というところにその軽い手つきがあらわれている。しかしここには、いっぽうでどこか物悲しい雰囲気がまつわる。どこかで、「きみを振り向かせる」、という仕草やこころの向かい方が、かさなって映るからだろう。
それはそういう気持ちをかさねて歯ブラシの向きをかえたのではもちろんないが、どうもそうさせた気分には、別れの予感がふくまれているようなのだ。歯ブラシをこちらに向けてみて、そのままだったか、またくるんと後ろを向いてしまったか。
「みたりする」という婉曲には、あるいはそのことに気づいてしまった、わたしの恥じらいのようなものも、にじむのかもしれない。愛着と、それがいつまでもは続かない兆しとが、しずかに調和するような一首である。