宮本史一『cahiers』vol.7,2017.11
はっきりとそう書かれてはいないのに、一抹のさびしさが漂っている歌です。
「風鈴がふるえる九月」。
最近は、まだまだ「九月」でも夏のような暑さを感じることもありますが、朝晩はすこしずつ、肌寒さを感じることも増えてきました。
その、出しっぱなしの風鈴の音に気づくとき、というのは、季節を少しずつ外れてゆくものの音を耳に拾う、ということでもある。
風鈴の音の涼やかさは、秋の時候にはそぐわず、だからこそ、ここでは風鈴が「鳴る」のではなく、「ふるえる」と表されているのでしょう。
三句目からは「生きてゆくための思想に上書きはなく」と続くのですが、
「ふるえる」、「九月」、「生きてゆく」のuの音で重ねられる軽快な調べと、その耳障りの良さは、どことなく風鈴の音を彷彿とさせられます。
さらに、この歌はかみしもで分けると「風鈴がふるえる九月生きてゆく」でいったん区切ることができて、わたしたちは「風鈴」が「九月」を「生きてゆく」物語だと早とちりをしてしまいそうになる。
けれど、下の句では「ための思想に上書きはなく」と、その物語が語り手のものへと「上書き」されるようなつくりになっています。
「上書きはなく」という言葉が、しかしながらその意味と逆の動きを指し示しているのです。
おのれの「思想」を上書きすることこそが、知の力でもってこの世界を見据える、捉え直すということではないかしら、なんて考えてしまうけれど、
風鈴の音のような涼やかさと、夏の終わりのさびしさは、否が応でもときの流れを身に刻む。
その瞬間に感じるやるせなさは「上書き」のしようもなく、この歌の〈私〉は、きっとその都度、きちんと傷ついている。
もしかすると、これこそが生に対して真摯な姿勢のひとつなのかもしれないな、と思い直したのでした。