生い立ちは昏いほそ道ふりむけばどうと銀杏の葉が散っている

道券はな「嵌めてください」『短歌』,2020.11

 

語り手は「昏い」という、けれど、なぜだか「まっくら」という感じはしない。

「生い立ち」という言葉を見ると避けて通りたくなるのですが、この歌の場合は、ぐっと引き込まれる不思議な力を感じます。

 

「生い立ちは昏いほそ道」。

i音の連なりによって、重量のある内容をリズミカルに、軽やかにうたいはじめる語り手。

「生い立ち」が明るくないこと、そして大通りなどではなく「ほそ道」であること、どれも負の要素を背負った言葉たち。

ただし「昏い」の字が採用されていることからも、単なる「明るさを伴わない」というだけのくらさではないようです。

 

「ふりむけばどうと銀杏の葉が散っている」。

作中の〈私〉はその場をふりかえり、何かをまなざそうとする。

と書いて、語り手は「ふりかえる」のではなく、「ふりむけば」と言っていることに気がつきます。

ほんの些細な違いですが、「ふりかえる」よりも「ふりむく」のほうが、その「道」とシームレスに繋がっている動作を彷彿とさせられます。

 

そこには、「どうと銀杏の葉が散っている」。

葉っぱのオノマトペというと、まず頭に浮かぶのは「ガサッと落葉すくふやうに…」ですが、

この歌の中の「葉」は「どうと」、まさに堂々たる佇まい。

けれど「散っている」ということなので、わたしたちの眼裏は「昏いほそ道」から、あの「銀杏の葉」の圧倒されるような黄の色に染まってゆきます。

最初に「まっくら」な感じはない、と書きましたが、それはこの歌の色彩の妙によるものなのでしょう。

 

「銀杏の葉」が歌の世界を照らすかのように、歌の中の〈私〉にはその「どうと」散っている様子が目にうつっている。

それは、過去をふりむくことのできる今の〈私〉の、見る力が捉えることのできた新しい景色であり、世界でもある。

 

わたしたちはわたしたちなりの「見方」を手に入れることができたし、それは、「生い立ち」という「昏いほそ道」があっても、なくとも、自らがみずからの力で手に入れた宝物なんだということを、改めて気づかせてくれた、そして勇気をいただけた一首でした。

 

第66回角川短歌賞受賞作から。

 

 

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