たつぷりと牡蠣の旨味をふふみたる土鍋の底の葱をたのしむ

内藤明『斧と勾玉』(砂子屋書房、2003年)

 

うまそうなめしのうた数多あれど、今日のこの一首ほど、なんど読んでも「うまそう……」と声にこぼしておもってしまううたはそうそうない。一読うまそうで、二読三読そのおもいがじわじわ広がっていく。おもわず頬が緩む、つばを呑む。いいなあ、食べたいなあ、と嚙みしめておもう。

 

牡蠣のはいった鍋を食べた。そのあとだろうか。土鍋の底にのこった野菜や、ちいさくなったもろもろの具をさらっていく。そこに葱もある。ただの葱ではない。さいごまで残ってくたくたになった葱である。「さいご」とおもうのは、「底」ということばに誘われるからだろう。

 

ぐつぐつ煮込まれて、「牡蠣の旨味」をたっぷり吸い込んだ葱。「ふふむ」は含む。これがおいしい。

 

うたはまず、「たつぷり」「牡蠣の旨味」であるから、ここで牡蠣そのもののおいしさを味わうことになる。そうしてつぎに、「ふふみたる」とあるので、そののちにつづく「なにか」が予感される。牡蠣がメインではないのだ。

 

「土鍋の底の」……と、それこそ菜箸を差し入れるようにして、さいごの「葱」にたどりつく。あらかじめ「牡蠣のおいしさ」を想像していたことで、さらに、加えて、いちだんうえの(あるいはそれとはいくぶん位相のちがった)おいしさを思い浮かべることができるのだ。

 

牡蠣のいかにもメインでありそうなところに対し、葱ときたのも意外でいい。しかし納得感がある。「たのしむ」表情まで見えてきそう。うたはなんとなくひとりの気分、そこに酒が添うかどうか。いろいろ想像する。

 

この秋の夜、もくもくと湯気たつ鍋にぬか寄せて、三人四人、鍋がやりたいなあ、とおもう。

 

うたの引用は、現代短歌文庫『内藤明歌集』(砂子屋書房、2018年)より。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です