人界に巣をつくりたるせっかちな山鳩こんなにさびしい聲で

中井守恵「紙の剣」『短歌』,2022.09

 

姿の見えない、不思議な哀愁のただよう一首。

紛れもなく、ここで鳴いているのは「山鳩」です。それなのに、語り手がそのさびしさに寄り添うように、というよりも、

むしろ山鳩の「聲」のほうが、語り手のさびしさに呼応しているようにも見えます。

 

「人界に巣をつくりたるせっかちな山鳩」。

わたしたちが街中でよく見かける、グレーの羽をもつものが土鳩、そしてときおり見かける、やや茶色がかった羽をもつものが今回の歌の主役である「山鳩」(またの名をキジバト)です。

その名の通り、昔は山地に住んでいたらしいのですが、現代では人里でも、緑の多い場所では比較的よく見かけるようになったそうです。(「ヤマバトは結構度胸がある」らしい)

 

「せっかちな山鳩」ゆえに、自然界にまで戻ることを選ばずに、「人界」で巣をつくりはじめてしまった、ということでしょうか。

しかし、「山鳩」は遺伝子レベルの郷愁にかられ、「こんなにさびしい聲で」鳴いている。

 

ここで、初句の「人界」という言葉に対する違和感に気がつきます。

先に書いたように、自然界に対してにんげんの住む場所を表すとき、多く用いられるのは「人里」という表現だと思うのですが、

この歌の中では「人界」という、不思議な括られ方をしている。まるで結界をもつような言葉が選ばれているのです。

 

こんなところに居なくともよいのに、という哀れみは、「人界」に在り続けることのかなしさを知り尽くす、神様のような大きな視点をも有しています。

だからこそ、鳩の「聲」は、その旧字体の選択によって、単純な鳴き「声」ではなく、さまざまな生き物を包括した、複雑な様相を呈している、ようにもうつる。

それらの、大きな視点による哀れみこそが、「姿の見えない、不思議な哀愁」の正体なのでしょう。

 

最近、木の中に鳩が潜んでいるのを見つけて、そのこと自体にも、そしてその鳩の羽のめずらしい柄にもとても驚いたのですが、そうか、あれが山鳩だったのかと、この歌を読むことで謎がひとつ解けたのでした。

 

 

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