鈴木ちはね『予言』(書肆侃侃房、2020年)
雪が降っている。まだ降りはじめで、しかし、いよいよ降りそうで、車のうえに、うっすらと雪が積もっている。路面におちた雪はたちまち消えて、まだ、積もるという感じにはならない。見渡すともなく眺めながら、「雪はまず車のうえに積もりだす」とおもう。
鈴木ちはね『予言』を読みながら、リフレインの多いのに気づく。気づくというより、もっとあからさまに、リフレインがある。「二度くりかえして言う」ことが、まるで「うたう」ことそのもののようにも、おもわれてくる。
上の句で、車のうえの雪を言ったときには、それは雪を見ているというより、道でも樹木でも家でもなく、「車」にまず雪は積もりだす、という認識・発見を言ったのだった。それが、下の句ではやはり車のうえの雪を言いながら、こんどは、「車のうえにしずかに雪は」、と雪の降る様子そのものに、意識が移っている。
この差異に、リフレインの妙がある。ここに詩情がうまれる。「二度くりかえして言う」ことがうたになる。位相のちがいに、景色の次元があがるような感触がある。そのひらかれた隙間に、鑑賞者のわたしは入りこんでうたを味わう。
さいご、「雪は」の言い止しは、雪に焦点があうのを明確に示しながら、しかし言い切らず、降りつづける雪の、いつまでも繰り返されるその「動き」を、しずかに雪の降り積もりゆく時間を、むしろながく映しつづけるようである。