津波のやうに流行り病のやうにといふ比喩ひえびえと近寄りがたく

寺井龍哉「朱夏爛々」『短歌』,2022.09

 

ごくごくたまに、ぎょっとするような比喩を目にすることがありませんか。

その言葉を、そこで、そういったニュアンスで用いるのか……という驚きは、作品によっては読み手に良いほうに作用するときもあれば、
すごく悪いほう、を通り越して、拒絶反応を示してしまうような場合もある。

その「拒絶反応」をこそ求めて、そういった表現を選ぶ作り手もいるのだ、ということも(つまりそれが試みである、ということを)理解しつつ、理解を示すことのできない場合もある。

それは「逃げ」なのではないか、と思いつつ、どうしても向き直れないこともある。

 

この歌の語り手は、それらの言葉が「ひえびえと」していて、「近寄りがたく」と、

その表現が良いとも悪いとも明確には語らずに、上手に距離を置いています。

 

「津波のやうに」は3.11を、「流行り病のやうに」は新型コロナウイルスを想定しましたが、

それらはともに、いくつもの時代を経て再び起こり得る災いであって、その総称のようでもある。

 

そして、さめたまなざしで見つめているのはおそらくは作中の〈私〉であるはずなに、この歌中に「ひえびえと」在るのはそれらの「比喩」。

「といふ比喩ひえびえと」の「i-hu-hi-yu-hi-e-bi-e」の音の連なりはまるで軽快な言葉遊び。

自らは軽やかな、ユーモラスな調べを奏でながら、それらのやさしくて、浅いシミリを緩やかに、冷たくまなざしている。

あるいは言葉そのものを、ではなく、そのような「比喩」を使ってしまうかもしれないにんげんの、

想像力の至らなさを、思慮の浅さを、思考の怠惰を戒めとして指し示しているような歌だと感じました。

 

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