國分道夫『武骨なる手』いりの舎,2018.03
ときおり、齢を重ねることで、失ったり、手放したりするものはたくさんあるのだろう、と思います。例えば、こういった歌を目にするとき。
そんなさびしいことを断言できるなんて、と、それらの時の流れの強さを思うのです。
「わが生にかかる耀きのなかりしを」。
この上の句でもっとも煌めいているのは「耀き」という言葉そのもの。
そう「思ひつつ見る」と続けられて、どんな絢爛豪華な景があるのだろうと読み進めると、語り手は「今年のもみぢ」をあっさりと差し出します。
「もみぢ」は毎年目にするものだけれど、「今年の」はよりいっそう素晴らしい、という意味かしら、あるいは、
ワインのお祭りのように、その美しさは比類のないもので、今年のものもとりわけ素晴らしい、というような意味なのか。
最初に感じたこの歌の〈さびしさ〉が際立つのは、きっとこの「今年の」のせいでしょう。
ともすると毎年繰り返しているのかもしれない、儀式のようなこのさみしい回想。
そして、ありとあらゆる〈私〉の生の煌めく出来事が、この歌の最後の「もみぢ」に集約されてゆく。
「わが生にかかる耀きのなかりしを」と感じられるほどに、どの秋も、「今年のもみぢ」は作中の〈私〉の目に耀いて見えている。
そのまなざしこそが「耀き」であると、わたしは敢えて言いたいのです。