小林真代『ターフ』(青磁社、2020年)
進学のためにふるさと福島をはなれることになった息子。新学期、あたらしい学校で「どこからきたの」「福島から来ました」、こういう会話がたくさんある。その場面を想像している。
この会話じたいは、ごくありふれたもの。しかし歌集のなかでは、このうたのもうすこしあとに、
福島の人がクラスにゐると言ふ息子よおまへも福島の人
汚れたる福島を言ひしそのこゑでうつくしと言ふ欅若葉を
といううたたちがあって、「福島から来ました」と言うときに、「福島の人」として見られてしまう息子のことを、そして震災以後の、「見られてしまう」そのことそのものを、うたのわたしは苦々しくおもうのだ。
「どこからきたの」「福島から来ました」、このよくあるやりとりを、ことさらおもわなくてはならないひとが、あるいはおもってしまうひとがいることを、その構造を、うたの現実がつきつけてくる。
新しい「街」とあるのは、おのずから、見られるものとしての「福島」(という街)との対比になり、また四月のもう春とは言えまだ肌寒いころを言いながら、この「寒い」は、たくさんのたくさんのつめたい眼差しをおもいみるものである。
福島から/来ましたと新/しい街で/言ふだらうまだ/寒い春の日に
四月だと、まだまだ春という感じでなく、まさに「寒い」というところも、むろんある。いずれにしても、春の日の明るいきざしのなかに、しかし「寒い」ということが、ことに身に沁みる一首である。