春がすみいよよ濃くなるまひるまのなにも見えねば大和とおもへ

前川佐美雄『大和』甲鳥書林,1940.08

 

「国葬」の様子を、現地に比較的近い場所に身を置きながら感じたのは、(じぶんも含む)みんな、もしかすると何も見えていないのだろうか、ということでした。

 

それは思想や信念の左右に拘らず、そして、いったんは全てを無かったことにして故人を悼む、という日本の葬儀の特質も輪をかけて、

美談を連ねるひとびとも、またその周辺で、声を張り上げて異をとなえるひとびとも。

 

あるひとのスピーチの最後に、歌が一首引かれていた。

テレビ番組に出演していたコメンテーターが、そのことを踏まえて、「美しい日本語というものを思い出させてくれた。感動した」と発言していた。

 

思わず、ぞっとした。そして、今日取り上げるこの歌を思い出しました。

 

「春かすみいよよ濃くなるまひるまの…」。

朝や夕べではなく、昼にいっそう霞が濃くなるというのは、その地方の特徴でもあるのでしょう。

続けられる、「なにもみへねば」、「大和とおもへ」。

濃い霞がかかっていて何も見えない、けれど何かが心の眼で見える、と言うのではなく、おのれのこころの眼で景を補完しなさい、というわけでもなく、

この語り手は「それこそが大和と思え」とのたまうのです。

 

そう、この歌の、この語り手も作中の主体も、実はなにも、なんにも見えていないのです。

この作中の主体が目の当たりにしているのは「かすみ」だけ。

けれどこの歌の語り手は、「春」の「かすみ」を強調させることで、富士を思わせる山の稜線をわたしたちに差し出し、

「まひるまの」とわざわざ言うことで、日章のような陽の輝きを暗に示したいのかもしれない。

 

でも、それができないからこそ、「おもへ」という奇妙な命令形が持ち出される。

そして、ぼんやりとした景色を見ているはずの作中の主体をも巻き込んで、語り手は暗示をかける。

何も見えない、だからこそ「大和」を思う。濃い霞の景が、まるで目くらましのように作用します。

 

それが盲信であることを、あるいは恋(山中智恵子はこの歌を「大和恋の呪文」と評したのでした)ゆえに盲目になっているおのれの状態を、これほどまでにパフォーマティヴに表現している作品も、そうそうないだろうと思うのです。

「いよよ」の〈i-yo-yo〉と、「大和と」の〈ya-ma-to-to〉、「呪文」のような働きは、調べによっても強調されています。

 

そうして、言ってしまう、言えてしまうことの怖さをわたしたちは考える。

その、美しい調べ、美しい光景、美しい言葉によって、覆い隠されてしまうものたちを考える。

その言葉によって扇動されてしまう、させてしまう力を、いま、考える。

 

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