還らないひとを探してひまわり畑を歩いた。何日も何日も

道浦母都子「ジョバンナとひまわり」『短歌』,2022.09

 

ぐるぐると、ひまわり畑をさまよっているような一首。

 

「還」の字の「かえる」は、多くの地点を経由したり、様々な過程を経て、根源となるところへ戻ることに用いられるもの。

「還らないひとを探して」、つづく三句目の「ひまわり畑を」で、あの有名すぎる映画が、ここで素直に、そして決定的な印象として裏付けられます。

 

連作タイトルの「ジョバンナとひまわり」によって抱いた予感が確信に変わる瞬間、この歌の「ひまわり畑」も表情を一変させる。

三句目以降の破調が特徴的でもあります。きっと、「ひまわり畑を」を、どうしてもこの歌の中心に据える必要があったのでしょう。

 

物語がうまく通らず、読み手の想像力を働かせる必要のあるものが、「還らない」ということについて。

敢えて「還」の字の当てられていることに着目して、わたしは輪廻転生のようなことを思ったけれど、だとすると「転生をしないひとを探して」ということになる。

その「ひと」はもうこちらの世界にいない、ということはわかっているのに、いつまで経っても、生まれ変わってはくれず、〈私〉の目の前に現れてはくれず、…

 

というようなことを考えてゆくうちに、わたしはこの作中の主体が「ひまわり畑」を、ぐるぐると廻りながら歩みを進める様子を思い描いていることに気がつきました。

これこそが「還」の字の効果であると指し示されて、はっとしたのです。

わたしがウクライナのひまわり畑、と聞いて思い出すのは、3.11の原発事故を下敷きにされた、萩尾望都の『なのはな』という作品でした。

当時、なのはなやひまわりが放射能の除染に役立つかもしれない、といううわさの広まりつつあったのを(のちに農水省が「効果が薄い」という見解を発表するまでに)、忘れてしまったひとも多いでしょう。

 

このとき、わたしはそれらの花々の意味が変わってしまうありさまを見せつけられたようで、どうしようもなく哀しい気持ちになったのを、生々しく覚えている。

けれどまた、以前通ったはずの道をとおって、別の意味をこの花に感じ取ることができるようになった。というよりも、なってしまった。

この歌を読んで、いっそうつよくそう思う。

 

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