荻原裕幸『永遠よりも少し短い日常』書肆侃侃房,2022.08
「すべての音が十月」とは、語り手はいったい、どういった状況を指示しているのでしょう。
例えば春はみどりの息吹、夏は水や風の調べ、秋の深まれば虫の声、冬は雪のしずけさなどがぱっと思いつくのですが、「十月」と限定されると、一瞬、考え込んでしまう。
上の句、作中の主体が手にしていた、あるいはその身のそばにあった「ボールペンが落ちても」、そしてみずから「鞄をひらいても」、語り手はそこに「すべての音が十月である」ことを感じ、そのように断言します。
「ボールペン」の冗長な初句からはじまって、どんどん言葉の加速してゆくように見えるのは、「ボールペンが」と「鞄を」の部分が、それぞれ一音ずつ字余りになっているからでしょう。
この字余りによって、わたしたちの眼裏にはこの動作の主体がまごついているように、あるいは言い方を変えると、世界に、ほんの少しの時差が働いているようにうつります。
その不思議な〈時差〉こそが、きっとこの歌にとっては重要なのです。
何故かというと、この歌の語り手は季節性を誇示するような景をわたしたちに差し出してはいなくて、
あくまでどの四季にもあり得る日常の光景を、そしてその延長上に「十月」に吸収される「音」が存在しているのだと語りかけている。
そのためのとても微細な違和感を、字余りによる〈時差〉によってわたしたちに指し示しているのだと解釈します。
季節の変わり目、というものをほんの少し過ぎて、冬の気配を纏い始めたころの、空気の変化を思い出させてくれる一首なのかしら……と、
まるで「十月」を迎えに行くようにして読むことなども、この歌の楽しみ方のひとつなのかもしれません。