中川佐和子『夏の天球儀』(角川文化振興財団、2022年)
母のうた印象的な一冊から、ここでは数少ない、夫をうたった一首を読む。
夫と一緒に歩いている。わたしは「遅れつつ」、すなわち夫はぐんぐん先を行く。ふたりの距離が大きくなって、互いの気配うすくなった頃か、夫が振り返り、わたしに「駆け」寄る。
立ち止まって「おーい」と呼ぶとか、その場で待つとかするのではなく、「駆け戻」る、というところにおどろく。わたしをおもうゆえだろうか、と瞬間おもう。
ところがうたは、そのようには続かない。わたしのもとに戻ってきた夫が言うのだ。「からだに力入れてるか」と。そんなことあるかなあ、とここにもおどろく。
たとえば心配して「駆け戻」ったのであれば、かけることばは、「具合がわるいのか」とか「もう少しゆっくり歩こうか」とか、そんなふうになるのではないだろうか。
おもえば「歩く」というときに、「からだに力」を「入れ」るという感覚を、もったことがない。ここにあるのはおかしみでも悪意でもなく、夫という「他者」であるなあ、とおもう。
「駆け戻り」にしても、その後のこの一言にも、またそのふたつがなんのためらいもなく順接するところにも、他人の理路がくっきりとある。それが鮮やかに見えて、鑑賞者のわたしはおどろいたのだ。
一首の作者は、そこにうたのわたしのこころを挟まずに、そのまま提示した。そこに一首をたもつ力があるのだろう。
一方、集中おおくある母をうたったうたには、母でさえ「他者」であるということに、いくらもこころ揺れながら、うたのわたしのこころが伝っている。