我妻俊樹「どちらも蜘蛛の巣の瞳」,たべるのがおそい vol.6 2018.10
何かが光っているはずなのに、その正体のはっきりとしない、不思議な一首。
語り手が手始めに立ち上げているのは、「冒険」という、自身で選んだとびきりのいばらの道と、そのために「着ていく服」の光景。
しかし、それが「闇夜には燃やしたように」、「思い出せない」と吐露しています。
歌の腰である三句目に「闇夜には」が挟み込まれることによって、一瞬、それぞれの言葉のかかる動詞をうやむやにしている……と見せかけて、じつはそれは目眩まし。
目が慣れると、ただ一つの場面の立ち上がるように仕組まれていることがわかります。まさに、歌の中で「闇夜」がその言葉通りの役割を果たしているのです。
言うまでもなく、ここで重要なスパイスとなっているのが、「燃やしたように」というシミリ。
無粋にも実際の景を思い描くとしたら。特別な「服」が焼尽し、黒焦げになって、あるいは真っ白な灰となってそこにある。
しかし「冒険に着ていく服」そのものはそこにはない、という、時空の歪みを抱きつつ。
「闇夜には燃やした」で、わたしたちのまなうらには、点火し、装飾のゆたかな服の燃え上がる様子が焼き付くでしょう。そののちの「ように」で、それが喩であると気づくと、とたん炎は控え目に小さくなり、「思い出せない」で、とうとう跡形もなく消え去ってしまう。
「闇夜」はここで、さきの文字通りの働きに加えて、この歌の重要な景をいっしんに担っていることも明らかになります。
「冒険」、そのために(目的/指標が自身であるTPOに沿った)「着ていく服」、「燃やした」、結句までのこれらすべての要素が煌めきを孕んでいて、
しかしながら最後の語り手による吐露、「思い出せない」によってすべて統括され、「闇夜」の中へと飲み込まれてゆく。
作中の主体は「闇夜」の(文字通り、歌の)真ん中で取り残され、呆然と立ち尽くしています。そして、それは読み手であるわたしたちも同様に。