潮のおと耳より心に入れながら脱にんげんの一瞬もある

伊藤一彦『言霊の風』角川文化振興財団,2022.09

 

リラックスの体現。ひらがな表記の「にんげん」は、例えば茂吉の

にんげんの赤子を負へる子守居りこの子守はも笑はざりけり

の、無気味な雰囲気をたたえた「にんげん」とはまた別の、けれどどこか不思議な存在感を漂わせています。

 

わたしの地元(福島県いわき市小名浜)では、「潮のおと」を総称して「潮音しおのね」と呼んでいました。教室の窓から海が見える中学校では、文化祭の名を「潮音祭しおのねさい」といいました。

自分にとっては身近な単語だったけれど、上京して、とくに短歌の世界に身を置くようになってからは、「潮音ちょうおん」のほうをずっとよく耳にするようになりました。

「しおのね」と比べて「ちょうおん」は、音読み特有の鋭さを抱えていて、じぶんの抱いていた「潮音」のイメージとはすこし違っていた、ということも思い出します。

この歌の場合は、どこか柔らかい印象を与える「潮のおと」という表記が選ばれています。わざわざひらがなに開いているのは、この一首にとって必要な操作なのでしょう。

 

つづく二句目以降。「耳よりしんに入れながら」とは、例えば海辺で貝殻を耳に当てる様子ですとか、目を閉じていっしんに波の音に耳を傾ける様子を思い浮かべます。

 

「おと」を入れる器官は「にんげん」にとって「耳」しか無いはずなのに、わざわざ「耳より心に入れながら」と説く語り手。

「心」は「こころ」そのものでも、「しん」とルビのあることから、迎えに行って解釈をして「心臓」でも、人体の中心に集めるようなイメージを抱きます。くさかんむり付きの「芯」を彷彿とさせられるからでしょうか。

 

そこから、「脱にんげんの一瞬もある」と気持ちよく言い切ってしまう語り手。さきにわざわざ「耳より」と述べたことで、わたしたちに「脱にんげん」化への道筋を丁寧に示してくれるかのよう。

「心」、「にんげん」、「一瞬」、これら「ん」の脚韻は、そのつど言葉を飲み込むような間が生まれることで、自然と頷くような体感ももたらされます。

 

まるでからだの中心を貫く、一本の芯のようなものが融け落ちて、「にんげん」の体を保てなくなってしまったような一首。

歌を読みながら気持ちよく脱力することで、わたしたちの耳のうちにも「潮のおと」が響いてきます。まさに、貝殻を耳にあてたときのように。

 

 

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