寺島博子『ひすいの時間』(角川文化振興財団、2022年)
「ゆふぐれ」であるから、たとえば帰路を想像する。ひとひを終えて帰る足どりは、けっして軽やかにはいかず、それでもどうにか家にたどりつかなくてはならない。「薄墨色」がひたひたと迫ってくる。
よくホラー映画などで、路面から次々に手が生えてきて足をつかもうとする映像があるが、「ゆふどき」の闇というのも、そうやって足首を摑んで引き摺り込もうとするようなところがある。その手から逃れつつ、重たい足をまえに出して、帰るのである。
じっさいにはもっと、気づいたらもうそこまできている闇から足を「引き抜きながら」。
先日、祝儀袋と一緒に筆ペンを買いにいったら、「薄墨色」のペンもあって、それは香典袋に書くのに使うらしい。その習慣や理屈については一旦おいておくとして、少なくともことばのうえでは、この「薄墨色」というのはいくぶん「死」に近いところにある。そんなことも、合わせて読んだ。
そのなかで、結句、「舗装路」だけが妙に生々しく現実味をおびている。ただの「路」ではない、はっきりとこの世の「路」である。生死の界から、どうにか体をこの世に傾けて歩く姿が浮かんでくる。
闇におかされた「路」を、いよいよ舗装路とも認識できなくなったとき、この世への通路はもうほとんど断たれてしまっているような、そんな危うさはりつくような一首である。