酒粕に鰆ふた切れ漬け込みたりうふふに過ぎる〈待つ〉とふ時間

伯野洋子『紫君子蘭(あがぱんさす)』角川文化振興財団,2018

 

山下さんが美味しそうな歌をしばしば鑑賞されているので、わたしもつい。

 

一読して、たまらなさ、のようなものを詠んだ歌かしら、と、やさしい感想を抱いておりました。

上の句の「酒粕に鰆ふた切れ漬け込みたり」に「ふた切れ」とあるので、用意されているのは二人分、或いはひとりの楽しみが二回分。

ここでの作中の〈私〉は、その「鰆」の粕漬けの並ぶ食卓の光景を思い浮かべて、この「思い浮かべる」という時間を独り占めしている。

それが「うふふに過ぎる〈待つ〉とふ時間」である、と、どちらかと言えばまっすぐに読み取ることのできる一首です。

 

思わず語り手も声に出してその笑みを、もしくはそれ以外にぴったりな表現のよぎりもせず、まるで心のままに発したかのような四句目の「うふふ」。

けれど、その笑顔は、丁寧に漬け込んだ「鰆」を食する瞬間ではなく、「〈待つ〉」という「時間」のほうに向けられている。

 

歌の世界で、作中の〈私〉が「鰆」を「酒粕」に漬け込んでいるそのとき、のことを言っているようでありながら、

よくよく見つめてみると、わたしたちの想定していたよりも、「うふふ」の滞空時間がじっとずっと長いことに気がつきます。

そのお茶目なひとことの一本釣りのようでありながら、期待の矛先に不思議な時差と余韻が生じているのです。

 

わたしたちはその引き延ばされる「うふふ」の「時間」の中で、語り手の、そして作中の〈私〉に流れる穏やかな時間をも疑似体験しているよう。

つまり、この歌で「うふふ」よりもしたたかな磁力を発しているのは、作中の〈私〉が演じているようでありながら、語り手によって巧みにすり替えられるこの特殊な「時間」のほうなのかもしれません。

 

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