襟足のきれいな風が吹き過ぎる今日の私はなにがさびしい

永田和宏「風通しのいい窓辺4 忘れない」『短歌研究』,2022.06

 

さびしくも爽やかなところの不思議な一首。

「今日の私」以外に登場人物のいないはずなのに、誰かの気配を感じさせる、不思議な一首。

 

初句より、「襟足のきれいな風」という、語り手の自然に対する独特の視線が示されています。

「襟足」は耳の下から首の後ろにかけて、左右の髪の生え際が下へ延びている箇所のことですが、ご存知のとおり、「風」にそのような部分は実在しない。

そもそも「風」そのものが、「実在」しつつそれを感じ取ることだけのできる、透きとおった目に見えぬ存在。

そんな「風」を擬人化することで、語り手はそこへにんげんの、誰かしらの面影を投じて、心を寄せているようです。

 

「吹き過ぎる」は、「吹く」+「過ぎる」なのか、「吹く」+「(「吹く」が)度を越す」なのか、明言はされていませんが、

少なくとも作中の主体のそばを離れ、遠くへ行ってしまった気配を感じさせる表現の選ばれていることがわかります。

 

下の句のいささか意味の取りづらく、「さびしい」というものに慣れ、それゆえの諦めと、柔らかい自嘲のような言い切りのかたち。

しかしながら「今日のわたしも」ではなく、「今日のわたしは」なので、まるで日々、〈私〉の新たな「さびしい」を探しているかのよう。

 

今はもうここにはいない誰かの面影を追い、その気配に慰められ、苦しめられるということは、生者としてこの世に実在するかぎり、逃れられないさびしい儀式。

そのことに対する、さっぱりとした諦めと、それゆえの寂寥が、冒頭のような「爽やかさ」という余韻に結びつくことに驚きます。

 

むしろこちらがわが包み込まれるような感覚におちいる、静かであたたかくて、そして、生への遣る瀬無さを飲み込むための歌だと思うのです。

 

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