田村穂隆「冬の肺葉」『短歌研究』,2022.02
うつくしくって、どことなくこわい一首。
「全盛期でした、わたしの」という、唐突な告白から語り始める語り手。
自身がおのれの「全盛期」を自覚しているという点も空恐ろしさがありますが、
倒置の形でますます強調されるのは、誰よりも「わたしの」全盛期であるといういびつな自己主張。
そして歌の腰である三句目の「ね、あの日」。
わたしたちは、いったいいつのこと?と思いながらも、語り手はそれを尋ねる余地を与えず、ゆっくりと追い詰めるように下の句へといざないます。
そこでふたたび唐突に、「贈った鳥は燃やしましたか?」という、不可思議な問いかけの形で綴じられる物語。これは、
ママンあれはぼくの鳥だねママンママンぼくの落とした砂じゃないよね/東直子
を彷彿とさせられる、呼びかけと問いかけに畳みかけられるこわさを感じるでしょう。
「あの日」に「贈った」なのか、「あの日」に「燃やしましたか?」なのか、
どちらの場合でも、「鳥」という生き物、あるいは「鳥」に喩えられる何かしらを贈るということのうつくしさ、
対してそれを「燃やしましたか?」と問いかけることと、その景の凄まじさには、実のところ大きな乖離が生じている。
しかしながら、無理強いをするでもなく、語り手のやわらかい、けれど底知れぬ呼びかけと問いかけによって、
それらの抱き合わせられるような、いわば新しい時空が歌のなかで生まれ、完成されているのがわかります。
この「新しい時空」の体現されている部分はきっと、一字明けののちの「 ね、」。
明確に何を指示しているかはわからないのに、この歌の余韻と調べを支えている、その底知れない「 ね、」によって、
そうしてすっかり語り手の口車に乗せられることによって、わたしたちは、何もかもがわからぬままに、この歌の時空へと身を移しているのです。