藪内亮輔『海蛇と珊瑚』(角川文化振興財団、2018年)
大根で殴ったことも殴られたこともないが、大根で殴られたら痛いだろうな、とおもう。だれかを「撲殺」しようとして、そのときに「大根」をおもうのは、だからいくらも自然である。いかにもな鈍器でないところがいい。
撲殺して「やる」、というところに衝動的なものがあり、そこからひらりと「大根」へおもいはおよぶ、そのスピードが「思ひたち」なのだろう。それなのに、とおもう。大根は撲殺には使われず、いま、鍋のなかにある。
このある種の肩すかしは、しかしいかにもリアルである。瞬間的に沸き起こった怒りや憎しみが、大根を買いに行って帰ってきて、その手順のなかでたちまち冷めてしまう。それで手元に残った大根は、目的を失い、こうしてしずかに煮込まれているのだ。
大根は、たとえば輪切りにすれば、もう撲殺にはむかない。だからそのだれかへの殺意もいちどは失われたのだが、しかしこの「煮てゐたり」にこもるしずかな怒りは見過ごせない。果たされなかった殺意が、煮込まれてさらに深いものへと変質していく。
その過程を見るようであり、あるいは転化した怒りの暗喩のように、火にかけられて鍋の大根がある。そうおもうとき、この一首そのものが、あるいはそもそも大きな喩ではなかったか、とおもう。すなわち「うたう」という怒りの沈め方/深め方に似てゐたり、と。