日高堯子『水衣集』(砂子屋書房、2021年)
このうたは「大根の母をたづねて」という七草粥のころの一連にあるのだが、そのふたつあとの連作「早春賦」のなかで、この母は亡くなる。
さしのべる腕が木のやうに硬くなり直になりしとき母亡くなりぬ
という一首があって、この直截に打たれるのだが、今日の一首もことに下の句の手放し方に迫るものがある。
「ここにゐて、ここに」と/一人を淋し/がる母よ/ここからゐなく/なるのはあなた
と読めばいいだろうか。はじめは
「ここにゐて、/ここに」と一人を/淋しがる/母よここから/ゐなくなるのはあなた
と切って読んだ。いずれにしても切りがたく詰まるひとつらなりの息遣いが、一首のこころを伝えている。
母をたずねてきたわたしを、「ここにゐて、ここに」と引きとめる。一人は淋しい。心細い。誰かがそばにいてほしい。それが子どものあなたであれば、どんなに心落ち着くか。しかし、わたしはそうできない。そのことをよくわかってそばにいる。
「ここ」というのは、母のいるまさに「ここ」でありながら、すなわちそれはこの世、現し世のことでもあろう。もう長くない母のいのちを見つめながら、しかし屹然としてわたしがいる。そうするよりほかないこころをおもう。
「ここからゐなくなるのはあなた」という呼びかけにこもる、しずかな覚悟がつよく、切ない。