あけつぱなしの手は寂しくてならぬ。青空よ、沁み込め

前田夕暮『水源地帯』白日社,1932

 

この頃、何故か「手」の歌にしばしば心惹かれるものがあって、しばらく「手」の歌の鑑賞がつづきます。

 

「あけつぱなしの手」とは、ずっと広げているてのひらのことかしら、

或いはそこにのせるべき何か、掴むべき何か、繋ぐべきなにかを、(文字通り)手にすることなく、ずっと空いている状態のことかしら。

 

わざわざ「ずっと」を付け足すのは、「ぱなし」という表現の選ばれていることから。

これは漢字で書くと「放し」で、なすべき始末を怠って、そのままの状態にしてあること。辞典によると、

「初めの行為はいちおう最後まで完全になされたのであるが、その跡始末を全くしない “……したまま放置する” 状態をいう」(森田良行『基礎日本語辞典』)とのことですから、

この作中の主体は、手をひらく、広げるという行為を目的のひとつとして遂行しつつも、「後始末」としてなすべき何かを放置しているようです。

 

そのような「手」は「寂しくてならぬ。」と、句点を用いた強い言いきりののち、語り手は「青空よ、沁み込め」という、呪文のような一言を唱えます。

この一言によって、さきの「手」にあった作中の主体の、そしてわたしたちの視点は、句点ののちに「青空」へと移り、さらに「よ、」という呼びかけによって語り手の口元へ、

そうして最後の「沁み込め」によって、再び作中の主体の手や心へと推移するようなつくりになっています。

 

読み手の視点が上下する、その両方に撥音の〇、句点の〇、つまるところ小さな白い丸が在ることで、わたしたちの目により〈ぽっかり〉感の焼き付けられるよう。

「寂しくてならぬ。」と言いつつも、たくさんの視点を従えている語り手の堂々とした語り口は、しかしながらこの〈ぽっかり〉感によって、「青空」の沁み込む余地を充分に保たせています。

 

この歌は、そういった〈ぽっかり〉の妙の効いた、不思議な手を持つ一首と読みました。

 

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