樋口智子『幾つかは星』(本阿弥書店、2020年)
ゆうべ降っていた雪が、今日になってもまだ降っている。あるいはやんで、とけきれない雪がまだいくらも残っている。そんな風景を想像する。目の前に、一本の路地がある。
積もった雪をわきへよけて、それをふだんよりも「細く」なってしまった、と言う把握にまずひきこまれる。道幅そのものに変わりはないのだが、そこを通るものにとっては、「細く」なったのである。
わたしが見る風景というのは、「わたしが見る」ということを抜きには存在しない。ここにある「細くなりにし」というある種のゆがみは、だから鑑賞者のわたしを説得する。
あるいは人の、車のとおったところだけがあらわになって、道のかたちを残しているのかもしれない。
むこうを来る人がいる。むこうからではないので、わたしのほうへ近づくまでもなく遠くに見えているその人が、ふっと視界から消えてしまった。このあたりを読むとき、鑑賞者のわたしの眼前には、断然雪が降っている。
雪が視界をさえぎり、その狭間からするりと異界へ消えてしまったその人を、わたしはもう、ふたたび見ることはないだろう。はじめからそこにいたのかさえ、あやふやになってしまう。
細くなった路地は、うたにおいて、だからこそ「むこうを来る人」との通路になったわけだが、その人を一瞬みとめただけで、あとはなにごともなかったかのように、ただ静かな時間がながれる。
異界へのいざないはそこに確かにありながら、異界は遠い。雪の日のせつない幻想である。
なお、作者名の「樋」の字は、一点しんにょうである。