かみくだくこと解釈はゆっくりと唾液まみれにされていくんだ

中澤系『uta0001.txt』雁書館,2005(引用は新刻版 皓星社,2018.02から)

 

この一年は、たくさんの歌を読むこと、そうして書くことを通して「考える」を思いっきりすることのできた、贅沢で幸福な年でした。

その前に、いまいちど触れておこうと決めていた一首を。

 

物事や文章の意味を考えつつ味わうことは〈咀嚼する〉と表現されます。

わたしたち読み手は、「かみくだくこと」によって、その作品をより深く〈味わう〉ことができている、と思い込むことがある。

しかし実のところそれは、その作品を侵し、汚し、にんげんの「唾液まみれに」する行為なのかもしれない。

 

そうして思い出すのが、敬愛する作家、モーリス・ブランショのつぎの文章でした。

 

読書は何ごとをもすることがない、何ものをも付加しない。それは在るものをそのままに在らしめる。それは自由であるが、存在を与えあるいは存在を捉えるところの自由ではなくて、受容し、承認し、「諾(ウィ)」と言うところの自由、「諾」と言うことしかできぬ自由、そしてこの「諾」によって開かれた空間において、作品の驚倒すべき決断が、作品が存在するという確認が立証されるのを許す底の自由であり――そしてそれ以上の何ものでもない。

モーリス・ブランショ『文学空間』(粟津則雄訳)

 

このブランショの姿勢について、ある評論家は以下のように解説します。

 

ブランショは作品にひとつの客観的な地位を与えることを注意深く避けているにもかかわらず、彼は、われわれに構成的な主体性の表現においてではなく、作品の表現において読むという行為を理解することを求める。ブランショはわれわれに「作品を、そうであることを受けとめ、そうすることで著者の現前から解放されること…」を望む。(……)追求すると、読むことにおいてわれわれが何かを「付け加える」と主張するのはばかげているのかもしれない。何かを付け加えるということは、それがどんな説明形式であれ、判断であれ、意見であれ、われわれを真の中心からさらに遠くへ連れ去ることにしかならない。われわれは唯一、それがそうであることのままにさせておくことで、作品の真の魅力に支配され得る。この見たところ受動的な行為、この「なにも~~ない」(「無」)が、読むことにおいて、われわれが作品に付け加えるべきでは無いということが、真に解釈的な言葉の定義そのものなのである。(……)

読むという行為についてのブランショの記述は、真正の解釈を定義する。徹底的に(完全に)、それは諸作品の研究や個々の主体の分析から見出すような解釈の記述を超越する。

ポール・ド・マン『盲目と洞察』、「第Ⅴ章 モーリス・ブランショの批評における非人称性」(拙訳)

 

この一年、作品に最大の敬意を払いながら、「考える」をすることを信念としてきたけれど、それでも、この歌を前に、わたしは立ち止まってしまう。

かみくだくこと。受容し、作品を「傾聴」すること。まだまだ、全然考えたりない、まだまだずっと、考え続けたい。

 

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