山中智恵子『紡錘』不動工房,1963
わたしの「日々のクオリア」も、これで最終回となりました。
いつかは向き合わなければ、と、ずっと考えていた、けれど、どうしても平静なこころもちで読むことのできなかった、山中智恵子の作品を。
なかでも、もっとも有名な歌のうちの一首を、さいごに、じっくりと。
(昨日の「クオリア」で山下さんが雪の歌を取り上げていたことにも心惹かれて。)
一読して意味の取りづらい、しかしながら、わけのわからぬままに何かが胸に迫る、凄まじい一首。
まず印象に残るのは、耳触りのよい、うつくしい言葉の響き。(「調べ」というべきでしょうか?)
分け入ってみると、
iuuoi/uaeuuui/u*aui/aeaiuui/aaiioaa
と、「いづくより」・「降る雪」・「運河ゆき」・「うすき」と、主に句切れにi音を畳みかけていること、その終わりに「たましひ」のあること、
そして「生れ降る雪」・「運河ゆき」・「うすき」に至っては、u音の連なりからi音へ収束する語の用いられていることがわかります。
口を大きく開ける必要のあるa音の言葉は「うまれ」・「運河」・「われら」ですが、これらも、a音で始まり、i音で終わる「たましひ」によって、その音韻がまるごとうつくしくおさめられている。
全体としてo音のすくない一首ですが、たとえば初句の「いづくより」が「いづこより」だったとしたら、その〈何処〉感が妙に目立ってしまうことでしょう。
これらの音韻の相互作用によって、まるで降り始めた雪のように、軽やかに、自然に、読み手はこの歌の世界へといざなわれるのです。
「いづくより生れ降る雪運河ゆき…」。
雪の降り始めは、異界に足を踏み入れたときのような、不思議な気配と気づきのさなかに身を置く、といった感覚をおぼえますが、
その静謐な空間と近しい空気を、この一首にも感じ取ることができるでしょう。今いちど音韻の面を挙げるとすれば、濁音の妙にすくないところでしょうか。
そのすくない濁音の用いられている言葉、「いづく」と「運河」は、地に足をつけるかのように、この歌をうつつに接続させる役割を果たしているよう。
作中の〈私〉は、ただただ「雪」を眺めている、じっと。
その「雪」が地へと降り立って、「運河」へと流れつくまでを透視している。あるいは「運河」をゆくのは〈私〉自身であるのかもしれない。
作中の〈私〉もまた静謐な時空に身を置きながら「雪」をまなざし、語り手はその「雪」の「生れ」る一瞬をこころの目でとらえ、わたしたちに差し出そうとしている。
そうして下の句、「われらに薄きたましひの鞘」。語り手は「われら」と、読み手をも抱き寄せて、呪文のようなひとことを発します。
「鞘」はおもに刀室のことを指しますが、ここでは「たましひの鞘」。
刀のように鋭く煌めく「たましひ」が、鮮やかに弧を描いて、おさまるべきところにおさまる様子を想像します。
それ以外のなにものをも招き入れることなく、そのときにしか耳にすることのできない、
薄い金属のささやかに触れ合う音を鼓膜に焼き付けながら。
生身の「われら」は、降る雪をただ眺めることしかできない。けれど、わたしたちにはきっとそれぞれ、おさまるべき「たましひの鞘」をもっている。
「われら」とは、きっとわたしのこと。そしてたくさんの、わたしたちのこと。そう呼びかけられるような錯覚に陥ったことは、初めてではない。
きっとこの「たましひ」は、世界のありとあらゆるものと向き合い、分け入り、切り落とし、その機微を逃さない。
これからも、この生身を通して世界を眺め、また「たましひ」を通してそれをとらえ、言葉にしてゆこう、と
運河を眺めるような遠いまなざしで、雪の行く末を眺めるようなしたたかな熱いまなざしで、これからも世界を、言葉を見据えてゆこう、
わたしにとって「たましひの鞘」は短歌というこの詩型だったのだと、思い知る、この一首を通して。
***
この世界に、数え切れぬほどのよい歌のあることを、ありがとう、と、こころから。
わたしから言葉がうまれるのではなく、言葉がわたしをわたしにしてくれると感じています。
だから、何度でもお会いしましょう。
それでは、またいつか、どこかで。