雨宮雅子『熱月』(雁書館 1993年)
海に囲まれた日本では、その周りを潮がめぐり続けている。潮は、季節によって趣をがらりと変える。本当に違うのだ。春には、鋭さが和らぎ、色も明るくなる。もう冬ではない、この「あさ」から。
そのような変化を、まず感じたのが「木木」という、陸のものであるところが興味深い。上下は関わりの無いものとして読む方法もあろうが、やはりここは、潮の変化を木木が感じたと取りたい。そんなふうに、不思議なセンサーがこの世には備わっていて、何のゆえか変化の時を知り、動き始める。
あるいは、木木自体はその関わりを知らないかもしれないが、大いなる誰かは知っている。俯瞰の上空から春の潮のめぐりを見て、突き動かされるように立ち始める木を見て、ああ、と思っているのだ。
さらに木木も、己一本で立つのではなく、「力を引き合ひ」ながら立ち始める。相談したわけではないのに。また、引き合ったからこそ、立てたということはある。そして立ち上がったことを契機にして、新しい時が始まっていくのだ。
私たちも、何からも無縁でない、と思う。
始まりの物語。「春」も「あさ」も「立つ」も始まりを表すもの。「潮」の中にある「朝」だって、始まりだ。
そして、関わりの物語。「列」も「めぐる」も「引き合」ふも、己以外の存在があってこその言葉である。
上句下句は、ぐるぐるとめぐる流動体がまっすぐなベクトルになるというかたちのイメージ、また、ごうごうという潮鳴りがぎしぎしという木木の立つ音とクロス・フェードする音のイメージとしても味わえる。目覚めのかたち、目覚めの音だ。
始まる、始まってゆく。
新しい季節である。
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一年間、歌を読ませていただくことになりました。これまで出会ってきた大切な歌の「クオリア」を言葉にしてみたいと思います。よろしくお願いいたします。