ひとの声よりもかそけき音のして給湯室に湯の沸くけはい

古川順子『四月の窓』砂子屋書房,2020年

 

給湯室、と言われて想像するものはいくつかあって、そのひとつにお喋りの場があるだろう。一首はまずそのイメージを引きながら、おしゃべりよりもかすかな音が聞こえる状況を提示する。こぽこぽこぽという水が沸騰する音、昔ながらの薬缶がひゅーひゅーいいかけている音。そんな音を想像する。主体はおそらく給湯室の外にいて、湯の沸く気配だけを感じ取っている。

「かそけき」が効いていて、〈かすかな〉とか〈ちいさな〉といった代替案よりも音だけがクローズアップされる感じがある。それは、例えば釈迢空の「人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどのかそけさ」(『海やまのあひだ』)というような歌がよぎるからだろうか。使い継がれた古語の響きによって、一首の中にしんとした空気が満ちる。

おそらく給湯室には湯を沸かしている人がいるのだろう。ただ、一首を読むと、給湯室には人がいなくて、湯だけが沸いているような気がする。それは「かそけき」という語の効果もあるだろうが、「ひとの声」という導入によっていったん給湯室でおしゃべりをする人が想像されて、それが「よりもかそけき音のして」ですーっと消えるという構成が作用しているように思う。ひとの声が消えたあとで、湯が沸いている様子が提示されるので、なんとなく無人の給湯室で湯が沸いている場面が像を結ぶ。

一首が描いているのは沸いている湯でも、湯が沸く音でも、人間が湯を沸かす気配でもない。あくまでも湯の沸く気配だ。それはどこか茫洋として、実態が無い。お湯からたちのぼる湯気でほんのりとあたりに靄がかかっている。同時に、結句の気配が「けはい」とひらがなに開かれていて、一首の内容は言い切られずに、どこかこの状況が確定しない感じがする。給湯室に入ると電気だけがついていて、沸騰したお湯も人間も存在しないのかもしれない。主体はそれを確かめはしないだろう。湯の沸く気配を感じ取り、何事もなかったように自分の持ち場に戻ってゆく。

一首に描かれているのは、すぐに忘れてしまうであろう些細な認識だ。このような認識は日常の中に数多あって、端から忘れていっているように思う。そう考えると、この「けはい」が書き留められて、一首として提示されていることが、どこか不思議なことのような気がしてくる。

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